デリバリーニュース

2015.03.13

釜飯をめぐる冒険

釜飯
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その時僕は二十歳で、あと何週間かのうちに二十一歳になろうとしていた。

季節は冬から春へと変化していったが、僕の生活には変化らしい変化はなかった。

冬は冬で、冬らしい装いをしていた。

 

僕はいつもと同じように大学へ通い、週に4日、本屋でアルバイトをし、

外出する気になれない寒い日は、出前をして簡単に夕食を済ませた。

 

「何を出前しよう?」

その夜、彼女はそう続けた。

わからない、と僕は首を振った。

 

そういった時、決まって彼女は釜飯を注文する。

「どれくらい釜飯のこと好き?」と彼女が訊いた。

 

「世界中のジャングルの虎がみんな溶けてバターになってしまうくらい好きだ」と僕は言った。

「ふうん」と彼女は少し満足したように言った。

 

やれやれ。僕は釜飯を注文する。

 

遠くの方で、電車が通る音が聞こえた。まるで別の世界から聞こえてくるような小さくかすかな音だった。

 

どうしてこれほどまでに釜飯に惹かれなくてはならないのだろう、僕はそう思った。

僕は決して、(生まれてから今もなお)釜飯のことが好きというわけではない。それでも釜飯のことを思うと、他の出前よりも魅力を感じてしまう。

それはたぶん釜飯が僕に何かを思い出させるからだろう。僕の中にずっと潜めていた何かを思い起こさせる、

僕はそれについて少し考えてみた。

 

 

釜飯の魅力について考えたと同時に、突然炊き込みご飯のことが僕の中に浮かんだ。

調理方法が釜飯とほとんど同じだけあり、風味も見た目もよく似ている。

そして、この2つの決定的な違いのそれに気付いたとき、それが突然、釜飯の魅力へと変わっていった。

釜飯と炊き込みご飯のワンダーランド

釜飯

人間というのは大別するとだいたい二つのタイプにわかれる。釜飯の好きな人間と嫌いな人間である。

べつに前者が保守的で、 後者がその逆で、というわけでもなく、ただ釜飯が好きか嫌いかという極めて単純な次元での話である。

それについては、炊き込みご飯も同じといえる。

 

釜飯と炊き込みご飯の決定的な違いについて、多くの人はこう考えるだろう。

「釜に入っているのが釜飯、お茶碗に入っているのが炊き込みご飯」

 

間違いではないが、-少なくともそれは-僕が考える釜飯と炊き込みご飯の決定的な違いとは違った。

 

釜飯と炊き込みご飯の決定的な違いについて、僕は 知っている。

それは食べる者にとって「特別であるか、そうでないか」だ。

 

「ずっと昔から釜飯はあったの?」

 

僕は肯いた。

「うん、昔からあった。子供の頃から。僕はそのことをずっと感じつづけていた。そこには何かがあるんだって。

でもそれが釜飯というきちんとした形になったのは、それほど前のことじゃない。釜飯は少しずつ形を定めて、そこにある世界の中で形を定めてきたんだ。

僕が年をとるにつれてね。何故だろう? 僕にもわからない。 たぶんそうする必要があったからだろうね」

 

 

このようにして釜飯は、それを手にするもののために作られた「特別な」一品なのだ。

僕はなんだか自分が釜飯にでもなってしまったような気がした。

誰も僕を責めるわけではないし、誰も僕を憎んでいるわけではない。

 

人は「特別」が好きな生き物だ。

一般的に他人とうまくやっていくというのはむずかしい。

釜飯か何かになって一生寝転んで暮らせたらどんなに素敵だろうと時々考える。

釜飯を食べて

泣いたのは本当に久し振りだった。

でもね、いいかい、君に同情して泣いたわけじゃないんだ。僕の言いたいのはこういうことなんだ。一度しか言わないからよく聞いておいてくれよ。

 

僕は・釜飯が・好きだ。

 

あと20年も経って、この記事や僕と食べた釜飯や、そして僕のことを覚えていてくれたら、僕のいま言ったことも思い出してほしい。

 

とにかく、そのようにして僕の釜飯をめぐる冒険が始まった。

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